午後からの第二当直勤務までの時間潰しにと朱は一人、街に溢れた人の波の中を歩いていた。
特別に用事があるわけでもない。
ただ【ある事件】の後から、朱は時間が空いた時、人混みの中に飛び込み視界を巡らせている。

船原ゆきを失ったあの日から




事件が起きる前であれば、第二当直勤務の日はゆきともう一人の友人、水無瀬佳織と集まって、皆で仕事の悩みや愚痴を言い合ったものだ。
三人で種類の違うケーキを選び、味見をしあって、お気に入りのお茶を楽しむ。
日頃、人の心の闇に触れることの多い朱にとって、二人と過ごす時間は本当に掛け替えのないものだった。
それも、今となってはまるで何年の前の出来事のように感じる。

ゆきの命を奪ったのは槙島聖護という男。それを止めることができなかったのは私。


朱は人混みの中を歩いて、視界に納まりきれない人の姿をなるべく多く映し出し、槙島聖護の男の姿を探す。
指名手配犯であれば本来人混みは避けて通るかもしれないが、どうしてだろう。あの男は、そういうタイプの人間ではない気がした。
きっと逃げることも、隠れることもせず、堂々と街の中を歩き回っているに違いないと。それは自らの行動に一つも悪があると思っていないからだ。
槙島聖護にとって無関係の人間を傷つけることでさえ、私達が食事をしたり、睡眠をとったりするのと同じように【とても当たり前】の行動なのだ。
そんな男をこれ以上野放しにはしておけない。これ以上、ゆきのような被害者を出してはいけない。誰かが悲しむ姿を見るのはもうたくさんだ。

誰かがとめなくてはいけない。

俯きかけた顔を上げる朱の身体がまるで金縛りにでもあったように突如動きを止める。朱はこの【空気】を知っていた。
背中に一点の痛みを感じる。針で刺されたような痛みは服越しだというのに、酷く冷たく感じた。
振り向くことさえできない朱の耳元に、自分以外の人間の髪が触れる感触と、体温が伝う。
耳に直接語りかけるように、そこから身体全体を犯すように、甘く、けれど一切の熱を持たない声が注ぎ込まれる。


「久しぶりだね。常守朱監視官」
「・・・・槙島聖護」


背後にいる男の名前を口にしたことで、朱の身体はゆっくりと時間を取り戻す。手首のデバイスに触れ、強く握りしめる。
すかさず振り返り、男と対峙しようとするも、背中に与えられ続けていた痛みが微かに増し、身体が急停止する。
「動かない方がいい。それとも刃物が人体にどれほどの痛みを与えることができるが、身を以って知ってみるかい?」
君の友人がどれ程の痛みを抱えて死んでいったのかを。と槙島は刃物の切っ先を朱の中へとまた少し進めていく。
冷や汗とは違う。皮膚を傷つけられ、痛みを訴えるように、血液が背中を伝う気配がした。


「刺したければ刺しなさい」
身体を傷つけられる痛みなんていくらだって耐えてみせる。
目の前で大切な人を殺されること以上に、痛いことなんてこの世界にあるわけない。
痛みを引き金に、槙島聖護に飛びかかり、殴られようが、刺されようが離しはしない。そう決意して、背後に意識を集中させる。
しかし、背中の痛みは増すどころか、むしろ刃物の冷たさと共に引いていく。
「冗談だよ。君のような人間はいくら自身を傷つけられても屈するタイプじゃないからね」
覚悟が空振りしたことで、一瞬、隙の生まれた朱の身体を槙島の長くて細い腕が背後から抱き締めた。
「っな!?」
「この場所じゃ通行人の邪魔になる。どこかふたりで話せる場所に移動しようか」
「冗談じゃっ!」
必要最低限の護身術は習っている。ヒールで相手の足の甲を踏みつけ、身体に絡みつく腕の拘束が緩んだところで槙島聖護を拘束する流れを頭の中でシュミレーションし、実行に移そうとした時、何度目かの先手を打たれる。
「なら誰か殺そうか?」
「っ!?」
腕の中におさめた朱に、笑みを浮かべながらそういった槙島。二人の姿は、傍から見れば恋人同士が人混みの中で人目も憚らず戯れているようにしか見えないのかもしれない。しかし、実際には無関係な人間の命の有無について語っているなど、誰に想像することができただろう。
「あの木の下にいる女の子なんてどうかな?」
槙島の指さす先には、木の下のベンチに座り、赤い風船を手にした女の子の姿。
近くには親らしい人の姿も見つからない。買い物中の母親をひとりで待っているのかもしれない。自分の命が天秤に掛けられているとも知らずに、地面から浮いた足を前後に揺すって、楽しそう笑っていた。
「この腕を解いて、君より先にあの女の子に駆け寄って、あの子を・・・」
「やめて!!」
声を上げ、槙島の腕を振り払うと、抵抗することなく拘束は解かれた。
やっとのことで対峙した槙島は、涙を浮かべ自分を睨みつける朱に満足そうに微笑んだ。


「じゃあ、行こうか」
槙島は朱の肩を抱きよせ、二人は並んでこの区画では一番大きな建物の中に入って行った。
抵抗できない怒りを堪えるフリをして、自身の二の腕を握りしめながら、朱は手首へと視線を落とす。

大丈夫。槙島聖護に遭遇した際、手首のデバイスで刑事課一係に緊急連絡を入れた。
音声によるやり取りは一切なしで、第三者に気付かれる心配もない。すぐに信号の発信元を突き止めて、皆が駆けつけてくれる。








朱が招待されたのはホテルの一室。
内装はホログラムを一切使用しておらず、全て本物の高級家具で整えられていた。正真正銘のスイートルームと呼ばれる類の部屋であることは間違いない。


「何か食べるかい?」
「いりません」
槙島はソファーに座る朱の正面のテーブルに琥珀色の紅茶が揺らめくティーカップを差し出した。
「ここの紅茶は気に入っていたんだが、もう飲めそうもないな」
残念だというと、自分用の用意した紅茶を一口だけ口に含み、カップをソーサーの上に戻す。
「仲間には連絡を入れたんだろう?どちらにしても、ここに君を招待した時点で、僕は此処に留まるわけにはいかなくなったわけだが」
発信器を起動させたのは気づかれていたようだ。だが、槙島聖護という男は慌てる素振りも見せず、それどころか部屋に留まり、紅茶を飲んでいる。
「あなた・・・一体どういうつもりなの・・・」
応援が来るのが分かっていて、公安局の執行官を部屋に招待し、時間稼ぎに付き合う理由が朱にはわからなかった。
「言っただろう?話をしようと」
「話って・・・」
「色相が濁らなかったっていうのは本当のようだね」
友人が目の前で殺されたというのに、と笑顔で言われ、朱は唇の端を噛んだ。そうでもしないと、今すぐにでもこの男に飛びかかってしまいそうだったから。
槙島はこちらから手を出さない限りは危害を加えてくるつもりはないようだった。なら、ここで一人で無茶をして槙島確保に乗り出すより、仲間を待つ時間稼ぎをした方が利口なのだろう。たとえそれが、槙島自身に用意された時間だとしても。
「君には失望したと言ったが、その点に関しては実に興味深い」
「私の身体を切り刻んで調べたいとでも?」
自分の体ではできないことを、自分に似て、それでいて異なる人間である朱を使い人体実験でもしたいのかと。
「そんなことする必要がどこにあるんだい?僕はPSYCHO-PASSの濁らない自分の身体に何一つ不満はないというのに」
「では私を人質にしたいんですか?」
そして今度は私を殺しますか?一係の誰かの目の前で?と問えば、槙島はそれもいいねと微笑んだ。
「その点においても君は非常に魅力的と言えるだろう。特に・・・」
槙島の顔が、今までで一番人間らしい、感情のこもった笑顔を浮かべた。
「狡噛慎也。彼は君をとても大切にしているようだね」
「あなたの目的は・・・やっぱり狡噛さん・・・なの?」
「ほう。彼はそこまで嗅ぎつけているのか。さすがだな」


狡噛慎也を狩り場に誘い込むには、近しい人間を餌にするのが一番だが、狡噛の近しい人間といえば必然的に公安局の人間なる。
公安局の人間が行方不明になったと分かれば捜査は大掛かりなものになり、狡噛一人を誘い出すのは難しくなる。
だからあえて、狡噛慎也の【近しい人間の親しい人間】を餌に選んだ。そして、狡噛は見事に餌に食いついたというわけだ。


「でも今日は本当に君に話があったんだよ」
常守朱監視官と、名前を呼ばれた声が、また感情のないものに戻っており、朱は全身が震えた。
身を乗り出す槙島に、後ずさった身体を、腕を掴まれ引き戻される。
整った男の顔が、視界いっぱいに広がったと思うと、唇に生温かいものが押し当てられた。

一瞬、自分の身に何が起こったのがわからなくて、動きが止まる。



次の瞬間、口内に柔らかいものが捩じ込まれて、意識が覚醒した。



「いやっ!!」






槙島の胸板を両手で突き飛ばし、どこにあったかもはっきりと思い出せない出口を探して部屋の中を走り回る。
扉という扉を全て開けるが、どうしても廊下へ繋がる扉へと辿り着くことができない。




怖い

気持ち悪い

どうして

なんで



予想もしていなかった槙島からの攻撃に、足が震えてうまく走れない。今すぐにでも床の上に崩れ落ちてしまいそうだ。
だが、背後に迫る足音が、それを踏みとどませる。時間稼ぎなんてどうでもいい、とりあえず逃げなければ。
「出口は・・・どこなの・・・」


お願い!と願いを込めて開けた扉の先は寝室で、同時にすぐ後ろに立つ男の気配。
槙島の脇の隙を縫うように走りぬけようとしたところで、スーツのジャケットを掴まれる。朱はジャケットを脱ぎ棄て走り出すが、再び伸びてきた手に髪の毛を鷲掴みにされた。
「いたっ!!!・・・・い・・・やっ!!」
引き摺るようにして寝室に連れ込まれ、広いベッドの上に放り投げられた。
この細い身体のどこにそんな力が眠っていたのだろう。自分の上に覆いかぶさる男の手が、片手のみで朱の両手首を頭上で拘束する。
身体を何度捩じって抵抗するが、朱の両手はベッドに縫い付けられたようにビクともしない。
ベッドに女を組み敷く男と、男を見上げる女。だがそこに一切の甘さはない。


「私を犯して・・・脅迫でもするつもり?」
気持ち悪いし、絶対に嫌だけど、でもそんな卑怯な男に屈したりなんて絶対にしない。
身体は汚されたって、心は絶対に汚させない。視線に込めて睨みつけるも、槙島は愛想笑いさえ浮かべもせず、朱を見下ろす。
「悪いが、僕にそんな趣味はないよ」
君には悪いが、君の体にも興味はないと、槙島は朱を拘束する手とは別の手で朱の心臓のあたりに指を這わせる。
「僕が興味があるのは友人を殺されて尚、濁らない君の心。それともう一つ―――」
「――――っぅ!!」
下腹部を服の上から鷲掴みにされ、恥辱と痛みから朱は小さく呻き声をあげる。
「命を生み、育む。女にだけ与えられた神に近しい機能が凝縮された場所」
押すように握りしめられて、痛みに両膝が上がる。


「色相が濁らない僕と君が交配したら、どんな命が生まれるのか。僕はとても興味がある」



シビュラシステムが神として君臨する理想郷と呼ばれるこの世界で、システムの鎖から解き放たれた存在と言っても過言ではない槙島と朱。
「僕たちの存在は何を意味するのか」
シビュラといえ元は人間が作り出したものだ。
もしかしたら、本当に神と呼ばれるものがシビュラを破壊するために僕たちのような人間を作ったのかもしれない。
シビュラに縛られない、新たな人間の種として一対の男と女を。
「僕たちの血がシビュラを否定し、システムそのものを崩壊させる」
人間は本来あるべき姿に還ることになると、槙島は朱の下腹部から手を離す。
「君はただ、僕の子供を産めばいい。そのあとは狡噛慎也のもとへ返してあげよう」
「っ!!」
「でも今日はここまでにしておくよ」
そろそろ時間切れだと槙島は寝室と隣の部屋を繋ぐ扉へ目を向ける。扉の向こうからは別の男の声が聞こえた。
「槙島さん。お楽しみ中のところ悪いんですがね、そろそろ行かないと本当に危ないですよ」
奴らが一階に到着しましたからねと、彼らにとっては緊迫した状況といえるのに、やはりその声はどこか楽しそうだった。
「ようやく君の仲間が迎えにきたみたいだ」
途中から発信器の電波妨害をされたっていうのに、予想よりずっと優秀だと。
槙島は朱の両手首の拘束を解き、上半身を起こす。すると、すかさず朱の手のひらが槙島の頬を捉えた。
パーンッ!と乾いた音が響き、その音で状況を把握したのだろう。扉の向こうの男がからかう様に口笛を吹いた音が聞こえた。
発信機の電波が妨害されていた?いつから?でもそんなこと、今となってはどうでもいい。
「絶対に!貴方の思い通りになんてさせない!!」
本当は今すぐにしがみ付いてでも槙島を確保すべきなのに、朱の身体はそれ以上動いてはくれなかった。


槙島からの返答はない。

ただ一言。






「狡噛慎也によろしく」





そう言い残して、彼は部屋から出て行った。











時間にして数分。槙島と入れ替わるようにして隣の部屋からかなりの大人数が部屋になだれ込んできたような音がした。
誰かが何かを叫んでいるような気がするが、作りのいい部屋では声はあまり通らない。
バタンバタンと先ほど自分がしたように、部屋中の扉が開けられる音が、次第にこちらに近づいてくる。


こんな時、一番に扉を開けて駆けつけてくれるのは、あの人であってほしいと心が望んでしまう。





「常守監視官!!」




ドミネーターを構え、部屋に飛び込んできた狡噛は、ベッドの上に座り込む朱の姿に、一瞬、表情を歪めたが、すぐに意識を切り替え、周囲を脅威となるものがないことを確認するとドミネーターをおろした。
狡噛は朱の正面に駆け寄ると、一拍置いてから、口を開いた。
「槙島聖護か?」
「はい」
「何をされた?」
「話を・・・しただけです」
「こんなところでか?」
ホテルの、しかも寝室で。そう言いたいのだろうということはすぐにわかった。
「人混みで槙島聖護に遭遇し、民間人を人質に捕られそうになったので指示に従い、部屋に入りました。話の途中、槙島聖護に危害を加えられそうになってたまたま逃げ込んだのが寝室だっただけです。性的暴行は受けていません」
気にはなっていたが、朱に気を使って訊けずにいただろう狡噛の心遣いを察して、あえて朱の方から答える。
状況が状況なだけに素直に朱の言葉を信じることができずにいる狡噛に『本当ですよ』と今自分にできる精一杯の笑顔を作る。
下手な作り笑いで逆に不安にさせてしまうかもしれないけど、そこまで深く狡噛を気遣うことが今の朱にはできそうにもなかった。

正直、本当にもう余裕なんてどこにもなくて。

今すぐにでも泣きだしたいけど、ここで泣いたらそれこそ【襲われました】と言っているようなもので、あとでどれだけ否定しても信じてもらえないだろうし。それに一度泣いたらしばらくは泣きやめる気がしない。それなら今は、泣くより先に状況の説明と、経緯報告が最優先だ。


「あの・・狡噛さん。手をお借りしてもいいですか?」
できればシーツの乱れたベッドの上に座っている姿をこれ以上誰かに見られるのは、何もなかったとはいえあまりいい気分ではない。
しかし、自身の足はいまだに震えがとまらず、自分の身体一つ支えられそうにない。
要求に応えるように伸ばされた狡噛の手は、朱の手を取らずに背と膝裏へ触れ、朱の身体を横抱きに抱えあげる。
「こっ・・・狡噛さん!?」
「黙っていろ」



狡噛は出入り口と非常口を押えていた宜野座・縢・六合塚に朱の保護を無線で伝えると『常守監視官は負傷している。先に連れて帰る』と一方的に告げ、現場の保護と鑑識ドローンの指示を征陸に頼むと朱を公用車に押し込んで、現場をあとにした。
負傷というのはおそらく背中の傷のことだろう。初めに槙島聖護に遭遇した際に背中に押し当てられた刃物の切っ先。会話の最中に徐々に進められた刃先は微かに肉に食い込み、流れ出た血液の筋が白いワイシャツを汚していた。



地下駐車場に車をとめると、運転席を降りた狡噛は助手席側にまわり、車に乗った時と同様に朱を抱えあげようとして、制止させられた。
「もう大丈夫です。自分で歩けますから」
それに人目がありますから、恥ずかしいですという朱を狡噛はじっと見つめ、それからため息をついた。
狡噛の姿に、意思は伝わったのだろうと朱が車から降り、車の扉を閉めたところで、視界が急速に動いた。あまりの素早さに一瞬目眩がした。
気づいた時には狡噛の肩に担ぎあげられていて、抗議の声を上げる間もなく狡噛は建物の中へと入っていく。
「こっ!狡噛さん!!降ろしてください!」
「怪我人は大人しくしていろ」
「怪我人って!大した傷じゃありませんから!」
公安局の廊下をこんなに大声をあげて歩いた人間は過去をいくら遡っても朱くらいではないだろうか。擦れ違い様に、皆何事かと歩みを止め、声の先にいる片割れが狡噛だと気づくと、黙って道を開けた。向けられる視線は『何だあれ?』や『ご愁傷様』などと色々で、居た堪れなくなった朱は狡噛の背中をポカポカと叩いた。
「もういい加減にしてください!怒りますよ!」
「怒れよ」
「えっ・・・」
「死んだ魚みたいな顔色されてるよりずっとマシだ」
その方がずっとアンタらしいと言われてしまっては返す言葉が浮かばなくて。あとは医務室に着くまでずっと、黙って周囲の視線に耐えるだけだった。



「シャツを脱げ」
「ちょっ!狡噛さん!女性に向かって軽々しく服を脱げとかいわないでください!」
医務室に着くなり投げられた言葉に、朱は顔を真っ赤に染めて声を張り上げた。
「自分で脱ぐのと脱がされるのどっちがいいか選べ」
「脱ぐのも脱がされるのも嫌です!ワイシャツの裾を捲り上げれば手当てはできますから」
「なら、それでいい。傷を見せろ」
妥協案を提示したのは自分とはいえ、やはり狡噛に肌を晒すのは恥ずかしい。
「本当に大した傷じゃないんですよ。絆創膏でも貼っておけばそれだけで十分で・・・」
朱が言っている間も、狡噛は微動だにせず、これ以上の押し問答を続けても無意味だと無言で語っていた。
朱は渋々と近くにあった椅子を引き寄せて腰掛けると、ワイシャツの裾をスカートから引っ張り出し、肩甲骨あたりまで捲り上げた。
白い肌にこびり付いた血の筋を見て、狡噛は引き出しからタオルを取り出し、流し台のレバーを上げ、温水を染み込ませる。
狡噛はもう一脚の椅子に腰かけると、朱の傷口を凝視する。タオルで労わる様に撫でられ、朱は小さく息を吐いた。ここにきて、やっと緊張の糸が切れた気がした。
消毒液の臭いが部屋中に広がり、小さな痺れに似た痛みが背中を走る。ガーゼで傷口を多い、上からポアテープで固定される。
「もういいぞ」
「ありがとうございます」
手早く行われた処置に、朱が『手慣れてますね』と言うと、狡噛は『こんな仕事だからな。この程度、嫌でも身に着く』と簡潔に返した。
振り向いた朱に、狡噛は目線の高さを合わせ、覗き込むようにして問いかける。
「何があった?」
本当はずっと訊きたかったのだと思う。それでも、朱の心が落ち着きを取り戻すまで待ってくれていた狡噛の優しさに朱も気づいている。
朱は小さく頷くと、槙島聖護に出会ってからの出来事をぽつりぽつりと話し始めた。





「・・・冗談じゃないですよね。まるで人のこと、モルモットみたいに・・・」



女は子供を産む道具じゃないのに。
話しながら朱は手首を撫でた。槙島に片手で拘束されてひ弱な自分。ドミネーターの力に頼りきって、肉体への鍛錬を怠った結果かもしれない。
「狡噛さん。今度、護身術教えてもらえますか?もっと体力つけて、自分一人くらい護れるようにならないと・・・」
顔の前で拳を握りしめる朱の手を取り、狡噛は腕の中に朱を閉じ込めた。男に無理やり組み敷かれたばかりの女に対して正しい行動だとは思えない。
それでも、そうせずにはいられなかった。自分以外の男が彼女に触れたという嫉妬心と、一人で何でも抱え込むなという気持ちが混ざり合う。
「くそっ・・・・」
「狡噛さん?」
苦しいほどに抱きしめれているのに、全く不快に感じない。愛情を一心に向けられているのがわかる抱擁は、愛しさしか感じない。
自分は心から必要とされていると口に出さなくても全身を通して伝わってきた。



「キス・・・してくれませんか?」


朱からの突然の要求に、狡噛の腕の力が和らいだ。
「私・・初めてだったんです。それなのに・・あんな・・・・」
槙島聖護の唇の冷たさを思い出し、涙がこみ上げそうになるが、それを掻き消すように狡噛がもう一度腕に力を込めた。
「いいのか?」
狡噛の腕の中、朱は頷き、狡噛の背中に腕をまわした。
「狡噛さんさえ・・・よかったら・・ですけど」
嫌だったら遠慮なく言ってくださいという朱の身体を解放し、柔らかな唇を親指の腹で撫でる。
「あんたのことを大事に思い過ぎて、手を拱いていた自分を殴りたい気分だ」
唇を軽く押され、促される様に少しだけ口を開けた。
「あんな男にくれてやるために、大事にしていたわけじゃない」
「んっ・・・」
やや乱暴と言える勢いで唇を押し当てられ、声が漏れる腰を引き寄せられ、絡まる舌は角度を変える間もずっと繋がったままだ。
呼吸の合間に零れる声はまるで自分のものではないようで、その声に合わせるように口付けも激しさを増す。





「これ以上。あんたを何一つ奪わせない」


縋るように、護るように、誓う様に、愛を伝えるように激しく抱きしめられて涙が零れた。
「名前…呼んでください」
二人の時だけでいいですからと、さらなる要求にも狡噛は嫌な顔一つせず、むしろ喜んでとでも言う様に微笑んだ。




「朱・・・・」




何度も名前を呼ばれ、再開される口付け。
大好きな人の、大好きな声で紡がれた自分の名前がこんなにも愛おしく感じるなんて知らなかった。



この人が傍にいれば自分は何があっても大丈夫。
心の底から、そう思えた。







この世界に神様なんていないのかもしれない。

それでも祈らせて






私から、狡噛慎也を取り上げないでください。







FIN



相変わらず不思議な終わりですみません。
槙島さんは朱ちゃんに失望したっていっていたけど、彼があのまま朱ちゃんから手を引くわけがないよね!ってことで「中二病か!」といいたくなる理由で朱ちゃんに興味を持つ槙島さんを書いてみました。でも異端同士の子だから、やっぱり異端なのかなっと。
まぁ、単純に狡噛さんへの嫌がらせっていうのもあると思いますけどね。うん。