「身体に良くないってわかっていて、どうして吸うんですか?」



狡噛の部屋。ソファーに腰掛けた朱は、煙草を咥え、煙を吐き出す狡噛を見て問いかけた。


昔、それと同じような質問をひとりの男にしたことがある。
女好きで短気で、凶暴で、実に楽しいクソ野郎に。



















【標本事件】
死体に樹脂を浸透させて、保存可能な標本にする技術を利用した猟奇殺人。
明らかに専門家の仕業であろうということから、捜査の焦点も薬学・科学に詳しい人間に絞り込まれた。

公安局刑事課一係の面々は、容疑者と思われる人間を追って、この区画へと急行した。


「くそっ。オイル切れか」
ヤスリ状の回転ドラムを勢いよく回転させるも、小さな火花が一瞬散るだけで、炎が揺らめく事はない。
佐々山は口に咥えていた煙草を箱に戻した。
「吸いすぎなんだよ。お前」
『大体、身体に悪いとわかっている物を吸って何が楽しい?』と問う狡噛を、佐々山は『お前らしい意見だ』と笑い飛ばした。
「健全優良児のお前には説明したってわかんねぇだろうよ」
楽しさや意味なんて求めちゃいない。だからといって意味がなければ何かをしないなんてつまらないことをするつもりもない。
「まぁ、こういうイケナイ遊びは俺ら潜在犯の特権だからな」
いちいち行動に意味を求めるエリート街道まっしぐらの相棒には、確かにこれは必要のないものだ。

狡噛が今日何度目かの溜息をついたと同時に、シェパード1宜野座からの通信が入る。
『容疑者と思われる人物を発見。俺とハウンド2は西側の経路から囲い込む。シェパード2とハウンド4は南側へ向かえ』
「「了解」」
送られた来た容疑者の位置情報を確認し、捜索していた建物から屋外へと飛び出す。
「ちっ。降ってきやがったな」
建物の隙間。微かに見える黒い空から落ちる水の塊が音をたてて地面を叩く。
もともと降りそうな気配はしていた。できれば降りだす前に片づけて局に戻りたかったが、それも叶わなかったようだ。
「通りで火の着きが悪いわけだ」
早いところ容疑者を確保して、1服したい。佐々山はポケットの中の煙草とジッポーを握りしめる。
雨に濡れたら、煙草もただのゴミにしかならない。
今朝買ったばかりだってのに、ツイてない。
これも日頃の行いが悪いせいってか?と、苦笑する佐々山に、狡噛からの指示が飛ぶ。
「佐々山。俺は廃棄された地下道経由で向かう。お前は上から行け」
「わーったよ」


ありがたい。
これなら、煙草もゴミにならずに済みそうだ。


佐々山は煙草の入った箱とジッポーを取り出すと今にも地下への階段を駆け下りそうな相棒を呼び止める。
「狡噛!!」
何事かと足を止め、振り返る狡噛に駆け寄ると、佐々山は煙草とジッポーを手渡した。
「預かっておいてくれ。雨に濡れてゴミにするのも勿体無い」
「お前ってやつは・・・」
こんな時まで緊張感のない奴だなと、狡噛は苦笑した。それから監視官の顔に戻り、部下へと指示を飛ばす。
「早く行け!」
「はいはい」
「俺より到着が遅かったら握りつぶすからな」
「それじゃお前に預ける意味がねえだろ」
「意味ある行動にしたかったら俺より先に容疑者を確保しろ」
「ひっでぇやつ」
小さく笑った後で、佐々山の目がかわる。
獲物を狩る猟犬の目に。


これ以上の言葉はいらない。
共に容疑者を目指し、駈け出した。



それが、佐々山の姿を見た最後だった。




次にあいつに会った時



俺の知るクソ野郎は







佐々山の形をしていなかった―――――









俺が地下から地上に出た時、雨はすでに止んでいた。

宜野座たちと合流し、容疑者の姿を探すも見つからず、佐々山の姿も見当たらなかった。
何度呼びかけても応答はなく、宜野座の制止も振り切って佐々山を捜した。



そして、切り刻まれたあいつの姿を見つけたとき、俺の中に【怪物】が生まれた。





その後の事は、正直よく覚えていない。
気づいた時には自室の前まで引っ張ってこられて、待機命令に背いて飛び出そうとする身体を宜野座に殴り飛ばされたところからの記憶しかない。
『少しは頭を冷やせ!!狡噛!』
細い腕をしたお坊ちゃんだと侮っていたがさすがはエリート監視官だ。衝撃に脳が揺れた。
床に座り込んだまま、どのくらいの時間が経っただろう。立ち上がろうとしたが膝に力が入らず、再び尻もちをつく羽目になった。
傾いた身体から、カランッと音をたててジッポーが床に転がる。
狡噛はジッポーを手に取ると、佐々山がしていたように、ジッポーの蓋を親指で弾く。
ドラムを回転させるも、佐々山も言っていたようにオイル切れのジッポーに、いつまで経っても火が燈ることはない。


「くそったれ・・・」


何度もドラムを回転させていると、指先の皮が剥け、血の匂いがした。それでも指を止めることはできなかった。



なんでだ
なんでお前が・・・・



「…佐々山っ」



絞り出された悲鳴にも似た声が、指先に一際強い力を生み、フリントと呼ばれる発火石とフリントホイールの摩擦が生んだ火花が、炎へと姿を変えた。
「・・・・・」
足掻きの先に揺らめいた炎が、佐々山の意志に思えた。

あぁ、そうだ。立ち止っている場合じゃない。いくらだって足掻いてやる。


スーツのポケットから佐々山の煙草を取り出すと、箱の蓋を開ける。
吸い口に微かな歯形のついたものがあった。佐々山が最後に吸おうとしていたその1本を抜き取ると、口に咥え、先端に火をつける。
「ぐっ・・・げほっ・・・」
煙を肺まで循環せることができず、咽返る。
それでも火を消すことはせず、何度も咽返りながら、初めて自ら火をつけた煙草を吸い続けた。
5分もしないうちに2/3程燃焼し、役目を終えた煙草を手のひらで握りつぶす。
自分の中に生まれた【怪物】が、目を開ける。
「お前の意志。俺が継いでやる」
怪物は大きく呼吸を始め、牙を覗かせる。
代償ならいくらだって払ってやる。お前を殺した奴の喉を食い千切るまで、爪が折れようと走り続けてやる。






そして俺は、本物の【怪物】になった。













「狡噛さん?」


どれくらいの間、記憶を手繰り続けていたのだろう。

気がつけば目の前に、心配そうに眉を下げ、こちらの顔を覗き込む朱の姿があった。
「大丈夫ですか?やっぱり疲れがたまっているんじゃ・・・」
「いいや。大丈夫だ」
狡噛の信用がないのか、朱が心配症なのか。
恐らく両方なのだろうが、不安の色の消えない朱の頭に手を載せ、無骨な手からは信じられないほど優しく撫でる。
「あんたは苦手か?」
狡噛は煙草を手に取り、朱の目の前に差し出す。
煙が鼻を刺激し、顔を歪める朱に「悪い」といって狡噛は煙草を口へと戻した。
「いいえ。すみません」
「あんたが謝ることじゃない」
目にも煙が染みたのだろう。うっすらと涙を浮かべた目を手の甲で拭い、そのまま目を閉じた。
「近くで直接嗅ぐのはまだ苦手ですけど、嫌い・・・ではないです」
朱は1歩分狡噛との距離を縮めると、額を狡噛の胸に預ける。


「狡噛さんと・・・同じ匂いですから」


あと、煙草を吸う狡噛さん。かっこいいですから。と、まるで思春期の少女のようなことを耳まで赤く染めて呟く。
予想外の返答に、暫し反応に困ることになったが、とりあえず喫煙の許可はもらえたのだと理解した。


「それで。さっきの質問に戻りますけど。狡噛さんはどうして煙草を吸うんですか?」


やっぱり身体には良くないですよ?と続ける朱に、狡噛は顔を上げ、煙を天井へと吐き出してから答えた。
「言っただろう。潜在犯の人生は末永く続けたいもんじゃないって」
「・・・早く死にたいってことですか?」
「そういうつもりはない。ただ、健康を理由にやめる必要はないってことだ」
どこまでも自分を大切にしない狡噛の態度に少し腹が立って、預けていた額を一度離し、胸板に小さく頭突きをする。
無言の抗議を我が身に受け、狡噛は小さく笑った。悔しいなと思ったところで、朱はあることに気づき、顔をあげた。
「でもそれは【やめない理由】のひとつであって【吸い続ける理由】とは違いますよね?」
「あんた。抜けてそうな顔して案外、隙がないな」
「それ。誉めてるんですか?貶してるんですか?」
「解釈の仕方はあんたに任せる」
「その言い方。ずるいですよ」
朱は再び狡噛に額を預けると「もういいです」と溜め息交じりに呟いた。
きっと自分はまだ、彼の心の全て触れられる位置には立ててはいないのだ。
だから言っても理解ができないと、答えを教えてもらえないんだ。
最後の悪あがきに、もう一度軽く頭突きをすると、煙の香りを纏わせた声が『悪いな・・・』と耳に吹きかけられて、黙って頷き返すことしかできなかった。



狡噛さんの心の檻の中には、一体何が潜んでいるんだろう。







それ以上何も訊かずにいてくれる朱に申し訳ないと同時に、感謝をしつつ、狡噛は煙草を灰皿に押し付けた。
狡噛自身にも正確な答えなどわからなかった。
佐々山も『お前には説明したってわかんねぇだろうよ』といっていたが、あいつ自身答えなんて持っていなかったんじゃないか?


シビュラの鎖から解き放たれて、行動に意味なんて求めなくなった。
【自分がそうしたいと思ったから、そうしている】それだけだ。
代わりに潜在犯として別の鎖に縛られることにはなったが、以前に比べずっと自由に感じる。
自分自身に失うものがないからか?どうあってもあとは堕ちるだけだと、理解しているからか。


奪われたくないものは確かに腕の中に存在しているのに。



身を屈め、朱の髪に指を掬い入れる。髪に顔を埋め、肺に残った煙を吹きかけた。
【これ】は自分のものだと、香りを沁みつける。実に身勝手な行為。
今日何度目かの無言の抗議を胸に受け、咥える物のなくなった口を、謝罪の言葉と共に彼女の唇に押し当てた。















佐々山のジッポーには、いまだオイルを補充していない。




もう一度、あのジッポーで火を燈すのは全てが終わってからだ。








FIN




なんか、纏まり悪くてすみません。
煙草を吸い始めたきっかけは間違いなく佐々山さんだと思うんだ。
でも、全ての事件が解決したからと言って狡噛さんが煙草をやめるか?ってなると、正直わからない。
っということで、こんなあやふやな文にやりました。


前作へのたくさんのブクマとコメントありがとうございました!
初めてのPSYCHO-PASS小説だったので、とても嬉しかったです!